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ひとりよがり

しばらく前まで,友人たちに限らず同い年ぐらいの人たちと話すと,必ずといってよいほど,どこかで「自分たちの最後」がテーマに挙がる。「もう生き方より,逝き方を考えなきゃ」とか,「なんとかピンピン・コロリを目指しますよ」という言動で盛り上がっているうちはいいけれど,実際に自分の老いを毎日感じるようになると,死にまつわることを考え始める。考え始めるのはいいのだけれども,考えがまとまるはずなどない。
ただ,年老いた人が自分の死を目前に感じて思うことは大体似たようなことではなかろうかという勝手な先入観はどんどん崩れた。
無,無常,精神の神秘,無限の宇宙,土への回帰,などなど,神がかり的な魂の神秘に心を寄せるものだと思っていた。違いはその人たちの思惟力や感性だけで,どのような人生を送ってきた人であろうが,頭の良し悪しなど関係なく,根本的には似たようなことだと思い込んでいたのだ。

年をとると考え方が変わる,については誰もが言うことだけれども,個人的には,考える基となる,これまでずっと当たり前だと思っていたことが当たり前に思われなくなり,とても困惑している。外の光景に色なんてないんだよ。光の合成によって色が存在するかのように思っているだけなのさ,と言われても,自然科学にのめりこむ好奇心にどっぷりと浸らない限り,目にする色はすべて存在することを当たり前と思って生きてきた。それが突然,別の光が現れたために,空は青や灰色ではなく,淡い黄色に変わり,道行く人々の衣服や果物・野菜など,すべての色が変わり,しかし生活に支障はなく,これまでと同じように日常は流れ,人々の様子も同じ,というような感じなのだ。大げさにいえば,の話だけれども。

それらが変わると,当然ながら,それらから感じる価値観も変わり,これまで大事だと思い続けていたことが急に無意味にさえ映り始める。目覚めてから屋内屋外で触れる光景や考えは多種多様に渡るけれども,そのひとつに,多くの人にとって重要なテーマである「国」がある。ネーションと呼んだほうが意味がはっきりするかもしれない。
(自分の)国,母国,祖国,どのような呼び方にしろ,国への思いは多くの人たちにとって,一生を通じても絶対的且つ最重要課題であるようだ。実は,年老いて,改めて明治維新前後の頃からの激動期に人は何を思っていたのだろうかという関心から,いろいろ本を読んでみた。大きく分けて,江戸末期は尊王攘夷と開国派,その後,富国強兵や資本主義経済の導入と共に社会主義,労働運動なども大きくなり,多様な人々が多様な考えを主張するなかで,国への強い思いがみんなの最前線にあることがいつも共通している事実になぜか不思議な思いを抱いた。

「なぜなのだろう」とぼんやりと考えるなか,でも人は死を目前にしたら変わるだろうと思っていたことが間違いであることを思い込まされた。きっかけは,石原慎太郎氏,野坂昭如氏が,自分の死を目前にはっきりと意識して書き綴った長い文章だった。三島由紀夫氏や夏目漱石氏が書き記した「死への意識」とも異なるような気がしたけれども定かではない。少なくとも,潔い死への願望は夏目漱石氏にはなかったものと信じたい。

石原慎太郎氏,野坂昭如氏,三島由紀夫氏に関して言えば,彼らにとって,国を憂えながらの潔い死がなぜこんなにも大切だったのかという大きな疑問が残る。と言えば,「当然じゃないか,そんなことも分からんのか」という非難があちらこちらから聞こえてきそうだ。

潔い死に関しては,意義不可解ながら,お好きなように,という感じでしかない。
どのような人の死も厳かであって欲しいと,心では思っても難しいことも事実だ。潔い死については,どうも「武士の辞世の句」のような風があって,凡人には似合わない。凡人に似合わないということは,ほとんどの人たちは凡人だから手本にするような死にもならないし,そもそも「いさぎよい」という意味が理解できない。三島氏は能動的に,石原氏は受動的に,自分の死を迎えたにしてもおふたりとも,潔い死ではあったのであろう。ただ,彼らが,キリストの死は潔かったと考えていたのか知りたいところでもある。

国については分からない。国の健全な形というものがどういうものか掴めないから分からない。考える基準がないから考えようがないと言ってもいいかもしれない。
星のような数の国々が世界に存在するのが当たり前のように考えられている状態は,一体どれくらい続くのか想像はつかない。ネーションとは別の形態の縄張りが張られるかもしれないし,融合・連合・結合などで数は一挙に減るかもしれないし,または消滅するかもしれない。いずれにしても,ネーションの条件は,これまでの2千年とは大きく変わる時期は意外に早くやってくるのではなかろうか。
明治からの,日本人の「祖国建設」の思いは基本的には現在でも変わらず,「日本は滅びる」の声は200年来至るところで聞かれ,戦争を体験した亡き父の口癖でもあった。「日本は滅びる」を憂える人たちは,若い(?)人たちの日本の歴史伝統文化への軽視・無関心・無知をやたら訴える。歴史伝統文化を知る大切さに異存はないけれども,少なくとも亡国を声高に叫ぶ人たちが日本国民に望む日本の歴史伝統文化の内容は,詳細・繊細な説明が不足しているためか,知らない日本人が非国民にされたり,伝統的な日本文化にそぐわない日本社会で生きてきた人たちは非日本人として除外されたりする。このような言動を耳にすると,特にインテリの人たちが多いこともあり,愕然とすると同時に,「なんだい!長い日本の歴史といったって,たかが千年そこそこじゃないか。3百年のアメリカをあざ笑う資格なんかあるのか」と言いたい。

地球が滅びても生物は再び現れるだろうけれども,人類も生きる世界があとどれくらい続くかなど,もちろん分かるはずはない。いずれにしても,わずか(?)数万年後でも,極東に存在した日本という国,その国のある時期を支配していた伝統文化は,ほんの数ミリの長さに過ぎない。
繰り返しになるけれども,歴史伝統文化を表面的ではなく実の人間社会と併せながら理解することは大事ではあるけれども,「これからの国」を築くためには「これまでの伝統文化」が欠かせない,つまり必要条件であるとは全く思わないというのが,少なくとも現時点での認識だ。