ご存じの方も多いと思うけれども,パリのオペラ通りはオペラ座からセーヌ河畔に近いパレロワイヤルまで斜めに下るように走っている,日本人も昔から多い目抜き通りだ。前方からオペラ座を背に,真っ白な毛皮のマントを翻らせながらさっそうと歩いてくる日本女性が目についた。どこかで見たような?と思った瞬間,越路吹雪さんだとすぐに気がついた。日本にいるころ,シャンソンというジャンルの音楽はテレビでときどき流れている有名シャンソン歌手の歌以外聞いたことはないし,失礼ながらアレがシャンソンだと思っていたので,興味を抱いたこともなく,聞き流していた。60年代はアメリカや英国のポップス・ロック・フォークが主流だったと思うけれども,シャンソンやカンツォーネのヒット曲もいつもどこかで流れていた。でも,越路吹雪さん,淡谷のり子さん,岸恵子さん,ペギー葉山さん,旗輝夫さんなどには悪いけど,彼らのテレビ出演は筆者にとってはパスだった。パスだったけれども,日本の多くの家庭と同じように我が家もテレビはつけっぱなしだったから,シャンソンは流れてくるし,シャンソンはこんな音楽なのかというイメージはいつのまに身体に染み付いていた。
話は変わるけれども,1980年ごろ,西ベルリンで通っていたドイツ語学校のクラスにイタリア人の女の子たちがいたので,調子に乗ってボビーソロの歌を口ずさんだら,みんなに「クサー」という顔をされたことがある。筆者は30歳,彼女らはみんな二十歳にも満たないぐらいの乙女たちだ。でも,サンレモ音楽祭に出てくるような歌謡曲は若者たちにとっては,中年のノスタルジック好みの,浅いロマンチックな,ダサい音楽でしかないのだ。と思わされた。
ところで,そんなにパリへ行きたいか,と,パリ通がパリに押し寄せる日本人を半分非難しながらちゃっかりと金を稼ぎ始めたのは70年代末ごろだろうか。筆者が二度目のパリ滞在をしたのは中旬。まだ,画家志望,ファッションデザイナー志望,写真家志望,そして学生がほとんどだったと思うけれども,見えなく,しかし大きな存在として,住みにくい日本から逃れてきたマイノリティーの人たちが数多くいた。まず同性愛者,そして「普通の」親を持ち,「普通の」家庭で育つ環境になく,悪に染まったわけではないのでその屈折した育ちのゆえ,周りから避けられて生きてきた人たちだ。そのような日本人はロンドンにも多かった。 ヴァヴァンにあった日本食レストランでアルバイトをしていた同僚に,ビリー・ホリデイの歌を流したことがある。いたく感激した様子で,ビリー・ホリデイが欲しい欲しいと言われた。その後の記憶はないけれども,そのとき逆に彼から教わったフランスの歌手がエディット・ピアフだ。 アメリカのジャズブルースとはかなり異なるのに,胸が震える魂の響きは全く同じという印象を抱いた。以来,50年以上,ふと聞きたくなったり,どこかから流れてくる彼女のソウル音楽を耳にするたびに,あのとき出会ってよかったと思う。オランピア劇場にも幾度か通った。その度に,あの伝説的な最後の “Je ne regret rien” を体験していたら,という想いが頭をかすめる。 そしてそれこそがシャンソンだという思いが刻み込まれている。もちろん,それはエディット・ピアフへの思いであってシャンソンとは違うことは知っている。 しかし,少なくとも,華麗な衣装をまとった,多くのフランス人歌手や日本人歌手や世界の有名歌手によって,煌びやかな舞台で大観衆を前に何千回となく華麗に歌われてきた「愛の賛歌」など,ピアフを超える人はこれまでひとりもいなかったと断言できる。 こういうことを言っても,おそらく越路吹雪さんは気を悪くされることはないような気がする。なぜなら,彼女は知っていたから。ピアフのソウル魂にはたどり着けないことを。