生きてはみたけれど
こんな題を持った映画を小津安二郎が制作していることを今まで知らず,うかつだった。 「大学は出たけれど」の知名度は昔から高かったけれど。パリのシネマテックではほとんど見た記憶のない小津安二郎の映画がロンドンの日本映画のファンの間では圧倒的な人気があることに非常に驚いた。パリでは,古典的日本映画では溝口健二,現代ではやはり黒澤明,そしてフランス的かもしれない大島渚などが思い起こされる。 フランス人や英国人の日本映画に対する評や感想は一応置いて,YouTubeで小津安二郎と制作映画に関するフィルムがなぜかいくつも並んで現れた。
切り抜きだけにしても,新たに見直してみて気づいたことがある。日常の日本人たちの複雑な感情の襞があれほど迷路のように描かれていても,全く不自然さを感じない。しかし,そのような自然さがすんなりと心に入るのは多くは男性であり,映画の舞台にいる人たちと同じ高等教育を受けた中間層,まぁ一般市民には違いないけれども,社会ではどちらかといえば主導性を持つ人たちだ。だから頂上にいる人たちのようなデラックスな人生は過ごせないけれども,別の層の社会の人たちとは接することはないし,知ろうとする関心もない,多数派日本人の姿のように見え始めたわけだ。50年以上も前に見た小津安二郎の映画からは全く感じることのなかった再発見ともいえる。もっともそれが正しければ,の話だが。
思い起こせば,亡き母は,小津の映画を全く良く言っていなかった。でも,ということは昔,初期の映画館に行ったわけだ。聞き忘れたけれども,おそらく父と一緒にだろう。自分らの日常と似ているだけに,いろいろな箇所がかなり癪に触ったようだ。何がどう癪だったのか聞いたことはないので分からない。しかし,定かではないけれども,原節子さんが早い時期に急に引退したのも,小津の意向の何かが合わない部分もあったのではないか。
大学を出てすぐ渡米し,一生をニューヨーク州で過ごした友人があるとき言ったことがある。「レイディーファースト,あの,女性を大事にしているようなレイディーファーストがアメリカ人を駄目にしている」 その意味するところを聞き逃したのは今でも悔いが残る。 どこの国も多かれ少なかれ男社会だ。表向きは,民主主義,男女同権の社会の中で,男女とも,一見自由に生きているように見えるけれども,日本はその点はるかにプリミティブな社会だ。ただ,日本の女性は,欧米人の言う男女同権・民主主義のはるか以前から,のしかかる男の不当な強制に立ち向かい,そして男に知られることなく,男返しの適応力を付けてきた。多くの女性たちにとってはそれらが,女性がより幸せに生きられる道であると同時に,男が信じてやまない「人間の」倫理とも合致するので,胸を張って女性のポジションを男性にも女性にも主張してきた。ただ,困ったことに,国家の経済政治から一般企業だけではなく,レジャーやエンターテインメント,地域社会や周り近所の決めごとまで,ほとんどの主導権は男性たちが独占している。さらに,「女性の本当の気持ちはですね・・,女性のために・・」と言って説明する女性専門家も男性だ。あの人は女性の気持ちをよく分かっている,と多くの女性から褒められたりするとさらに問題は深まる。男社会の中で生きる方法として,そして男社会のなかで少しでも主導性をとるための方法をマスターした女性たちの多くは,そのなかで居心地の良さや倫理さえも身につけ,それが女性の生きる最良の道だと考え,疑わないどころか護るようになる。しかし,いつの時代でも,人間としての真の自立した生き方を望んでやまない女性もいる。彼らがぶつかるのは男性だけではなく多数派の女性でもある。女性の本当(?)の気持ちを分かっている数少ない男性たちと一般多数の女性たちの間で,精神的な自由と自立を望む女性たちは孤立してゆく。
もしこのような見解のわずかでも正しいならば,小津安二郎が描く,とてもリアルな日本社会は本当は一部に過ぎず,かなり偏っている。リアルな美しさと映像力・演出力に惑わされ,偏っていることが見えなくなっているのではないだろうか。おそらく小津安二郎も知らない。亡き母も原さんも,小津さんの映画を見た,この映画の主人公である中間層以外の大勢の少数派も,本当は心にちくっと感じながら,声を上げないだけの話ではないのか。世界の巨匠に異議を唱えるのは勇気も要るけれども,とにかくむずかしい。